経歴
西和彦のアルバム、名刺帳、関連記事、関連書籍
(本人加筆版 2024/8/15)
西 和彦(にし かずひこ、1956年(昭和31年)2月10日 - )は、日本のエンジニア、日本のビジネスマン、日本のクリエーター、日本の教育者。
学校法人須磨学園学園長、日本先端工科大学(仮称)設立準備委員会 特別顧問、NPO法人 IoTメディアラボ 特別顧問、N & Partners 特別顧問。
兵庫県神戸市生まれ。須磨学園創立者 校祖 西田 のぶの孫。
印は「梅」。生まれ月2月の花。菅原道眞のご利益があるようにという両親の願いによる。
(1962年 西都 作)
父の西 邦大(1920年11月25日〜1999年2月7日)は須磨学園 前理事長。関西大学商学部卒業。鹿児島県万世特攻基地で終戦を迎える。神戸銀行に入行。退行して1955年須磨学園に奉職。商業科教諭、副校長・理事長を務めた。
母方の祖父の西田 音吉(〜1922年2月22日)は三重県飯野郡漕代村に生まれる。奈良県の高等小学校の教員となる。野木 のぶと結婚。1922年2月22日に亡くなる。
母方の祖母西田 のぶ(1880年9月15日〜1948年4月22日)は京都府中郡五箇村に生まれる。椙山高等女子学校、渡辺女子専門学校(東京家政大)卒業。1922年11月9日、須磨裁縫女学校を創立した。
母の西 都(1922年6月13日〜1994年3月20日)は西田音吉とのぶの3女。兵庫県立第二高等女学校、奈良女子高等師範学校家政科卒業。北海道江差高等女学校奉職。退職して1945年須磨学園に奉職。家庭科教諭、副校長を務めた。
妹の西 泰子は須磨学園 現理事長をつとめている。
印は「山百合」。6月30日の誕生花。
(工作・電気・読書・写真・音楽)×(小僧、少年、青年、壮年、中年、高年)として
- 15歳〜 エンジニア
西のエンジニアとしての原点はその少年時代にある。最年少でアマチュア無線の免許を取り、ゲルマニウムラジオに始まり、数々の無線受信機を自作し、海外からの衛星中継を見て、地球の裏側を見ることができるテレビ中継に興味を持った。この経験がインターネットの黎明期に、ネットの動画像配信に対する興味となっていく。 また、父の影響で機械式計算機にふれ、高校時代にコンピューターと出会うと、プログラミングに深く惹かれ、これを仕事としたいと考えるようになる。 電気通信と計算機の両方に早くから触れることによって、西は後のインターネットとパソコン時代を予測することができたのである。
- 30歳〜 ビジネスマン 経営者
マイクロソフトでベンチャー起業が株式を公開する実際をみて、アスキーの株式公開を考え、実行した。Microsoftの株式公開を経験しなければアスキーの株式公開はできなかっただろう。
日本興業銀行から提案された事業のリストラを行い、そのプロセスの資料作成が経営の視点となるビジネススクールの講義・演習の素材として役に立った。
- 45歳〜 教育者、クリエーター、プロデューサー、大学研究者
非常勤講師として東京工業大学でメディアシステム工学を教えそれまでの仕事を総括し、博士号を取得した。いろいろな大学で博士課程の教育に関係し、10人以上の博士号取得に関わった。エンジニアリングを仕事とする傍ら、クリエイティブな活動は趣味として続けられてきた。書籍の編集、写真、シルクスクリーン版画、音楽、ビデオの編集などを中学高校時代にはじめている。いろいろな活動を組織化してグループで行うという、チームワークの発想は、ボーイスカウトでのリーダーとしての団体活動、生徒会での文化出版活動、展示会などのイベントプロジェクトの企画・運営で養われたものである。
- 60歳〜 大学研究者
年譜
西暦 | 元号 | 評価 | 年齢 | その年の主なできごと |
---|---|---|---|---|
1956 | 昭和31 | ? | 0 | 須磨区大黒町の益子産婦人科医院で生まれる |
1957 | 昭和32 | ? | 1 | 記憶なし |
1958 | 昭和33 | ? | 2 | 記憶なし |
1959 | 昭和34 | ○ | 3 | 遊園地で車に初めて乗る |
1960 | 昭和35 | ○ | 4 | 須磨区板宿町の須磨学園工事現場に引っ越し ブルドーザーに初めて乗せてもらう |
1961 | 昭和36 | ○ | 5 | 山ざる |
1962 | 昭和37 | × | 6 | 育英幼稚園入園 いじめっこで対人トラウマ |
1963 | 昭和38 | ○ | 7 | 板宿小学校入学 |
1964 | 昭和39 | ○ | 8 | しずかに本を読む子 |
1965 | 昭和40 | ○ | 9 | 担任小田先生に可愛がられる |
1976 | 昭和41 | ×○ | 10 | 担任北井先生とうまくいかず カブスカウトに入隊。アマチュア無線をはじめる。 |
1967 | 昭和42 | ○ | 11 | 選挙で初めて学級委員長に選ばれる |
1968 | 昭和43 | ○ | 12 | 担任藤岡先生の代わりに理科の授業 |
1969 | 昭和44 | ○ | 13 | ボーイスカウトに入隊 勉強・英語が好きになる |
1970 | 昭和45 | ×○ | 14 | 生徒会長選挙に立候補 落選すれども文化部長 |
1971 | 昭和46 | ○ | 15 | 甲陽学院高校受験・合格 |
西暦 | 元号 | 評価 | 年齢 | その年の主なできごと | 1972 | 昭和47 | ○ | 16 | コンピュータを始める |
---|---|---|---|---|
1973 | 昭和48 | ○ | 17 | 勉強・学年で理系一番になる |
1974 | 昭和49 | ×× | 18 | 大学受験 東京大学理Ⅰ不合格。駿台予備校で大学浪人・読書 |
1975 | 昭和50 | ○ | 19 | 早稲田大学理工学部入学+体育会航空部入部 |
1976 | 昭和51 | ○○ | 20 | パックスエレクトロニカ創業 |
1977 | 昭和52 | ○× | 21 | 雑誌I/O創業/パックスエレクトロニカ |
1978 | 昭和53 | ○○ | 22 | 株式会社アスキー創業 マイクロソフトへ出向 NECパソコン設計 |
1979 | 昭和54 | ○○ | 23 | マイクロソフト副社長/OKI、HITACHIパソコン設計 |
1980 | 昭和55 | ○○○ | 24 | マイクロソフト/IBMパソコン設計 |
1981 | 昭和56 | ○○ | 25 | マイクロソフト新技術VP/京セラ ノートパソコン設計 |
1982 | 昭和57 | ○○○ | 26 | マイクロソフトボードメンバー/MSX規格発表 |
1983 | 昭和58 | ○○ | 27 | マイクロソフト/半導体事業開始 |
1984 | 昭和59 | ○○○ | 28 | マイクロソフト/チップス&テクノロジーに最初の投資 上場 |
1985 | 昭和60 | ××× | 29 | マイクロソフト関係破綻 日本へ帰国 |
1986 | 昭和61 | × | 30 | 資料室専任「窓際」副社長 |
1987 | 昭和62 | ○ | 31 | アスキー社長就任 |
1988 | 昭和63 | ○○ | 32 | アスキー社長 第三者割当成功 |
1989 | 平成1 | ○○○ | 33 | アスキー社長 アスキー株式公開成功 |
1990 | 平成2 | ○ | 34 | アスキー社長 バブルを享受 |
1991 | 平成3 | ○○ | 35 | アスキー社長 バブルを享受 |
1992 | 平成4 | × | 36 | アスキー社長 リストラの苦しみ |
1993 | 平成5 | ×× | 37 | アスキー社長 リストラの苦しみ |
1994 | 平成6 | × | 38 | アスキー社長 リストラの苦しみ |
1995 | 平成7 | ○ | 39 | アスキー社長 リストラ成功 |
1996 | 平成8 | ○○ | 40 | アスキー社長 再生の束の間の平和 |
1997 | 平成9 | ○× | 41 | アスキー社長 トラブル再発 |
1998 | 平成10 | ×× | 42 | アスキー社長 CSKへの身売りの苦しみ |
1999 | 平成11 | ×××/○ | 43 | アスキー社長辞任 CSKへの身売り/博士号取得 |
2000 | 平成12 | ○○ | 44 | MIT 客員教授「インターネットによる知識格差の解消」を研究課題とする |
2001 | 平成13 | ○ | 45 | MIT 客員教授 100ドルパソコン インターネットVSAT |
2002 | 平成14 | ○ | 46 | MIT 客員教授 電子マネー 機械翻訳 須磨学園校長 リストラ |
2003 | 平成15 | ○ | 47 | MIT 客員教授 産学協同プログラム、須磨学園学園長 |
2004 | 平成16 | ○○ | 48 | 須磨学園 学園長 須磨学園中学校開校、中高一貫教育に取り組み |
2005 | 平成17 | ○ | 49 | 須磨学園 学園長、 尚美学園大学 教授 「音楽とオーディオ、ビデオ」を研究 |
2006 | 平成18 | ○ | 50 | 須磨学園 学園長、 尚美学園大学 教授 2K映像の電子編集による映画の製作 |
2007 | 平成19 | ○ | 51 | 須磨学園 学園長、 尚美学園大学 教授 オーディオ試作研究開始 |
2008 | 平成20 | ○ | 52 | 須磨学園 学園長、 尚美学園大学 教授 SIトランジスタ アンプ |
2009 | 平成21 | ○○ | 53 | 須磨学園 学園長、 尚美学園大学 教授 コンサル会社 ITNY&Partners創業 |
2010 | 平成22 | ○ | 54 | 須磨学園 学園長、 尚美学園大学 教授 デジタルドメイン創業 |
2011 | 平成23 | ○○ | 55 | 須磨学園 学園長、 尚美学園大学 教授 スピーカーの研究と試作 |
2012 | 平成24 | ○ | 56 | 須磨学園 学園長、 尚美学園大学 教授 アカシックライブラリーを引き継ぐ |
2013 | 平成25 | ○ | 57 | 須磨学園 学園長、 尚美学園大学 教授 大判電子ポスター制作システムの構築 |
2014 | 平成26 | ○ | 58 | 須磨学園 学園長、 尚美学園大学 教授 4K映像のドローン撮影と電子編集と |
2015 | 平成27 | ○○ | 59 | 須磨学園 学園長、 尚美学園大学新学科 学科長 |
2016 | 平成28 | ◯ | 60 | 須磨学園 学園長、 尚美学園大学新学科 学科長 |
2017 | 平成29 | ◯◯ | 61 | 東京大学大学院ディレクター、須磨学園 学園長 |
2018 | 平成30 | ◯◯ | 62 | 東京大学大学院ディレクター、須磨学園 学園長 夙川中学校高校開校 |
2019 | 令和元 | ◯◯ | 63 | 東京大学大学院ディレクター、須磨学園 学園長 |
2020 | 令和2 | ◯◯ | 64 | 東京大学大学院ディレクター、須磨学園 学園長 オンライン教育開始 |
2021 | 令和3 | ◯ | 65 | 日本先端大学(仮称)設立準備委員長、東京大学大学院ディレクター、須磨学園 学園長 |
2022 | 令和4 | ◯○ | 66 | 日本先端大学(仮称)設立準備委員長、NPO IoTメディアラボラトリー理事長、須磨学園 学園長 |
2023 | 令和5 | ××× | 67 | 須磨学園 学園長、日本先端大学(仮称) 特別顧問、IoTメディアラボラトリー 特別顧問、Nアンドパートナーズ 特別顧問 |
2024 | 令和6 | 68 | 須磨学園 学園長、日本先端大学(仮称) 特別顧問、IoTメディアラボラトリー 特別顧問、Nアンドパートナーズ 特別顧問 |
0歳から
学校の広い敷地のなかで伸び伸びと育った時代
1956年
1957年(昭和32年)
1958年(昭和33年)
1959年(昭和34年)
1960年(昭和35年)
1961年(昭和36年)兵庫県神戸市の私立育英幼稚園に入園。
1962年(昭和37年)兵庫県神戸市の市立板宿小学校に入学。
1963年(昭和38年)
1964年(昭和39年)
1965年(昭和40年)ボーイスカウト日本連盟神戸23団カブスカウト隊に入隊。(昭和43年まで)
1968年(昭和43年)兵庫県神戸市の市立飛松中学校に入学。
1968年(昭和43年)神戸23団 ボーイスカウト隊に入隊。 (昭和46年3月まで)
1970年(昭和45年)ボーイスカウト日本連盟より菊スカウト章を取得する。
1968年(昭和43年)音楽の授業で「チゴイネルワイゼン」を聴く。帰りにレコード屋によって、そのレコードを買う。家にはプレーヤーがなかったので、作ることにし、プレーヤーを自作した。
1968年(昭和43年)放送部に所属し、行事のPAや放送プログラムを制作した。
1966年(昭和41年)電話級アマチュア無線士の試験に最年少で合格。
1967年(昭和42年)アマチュア無線局(JH3FTA)開局。50Mhz帯で運用。トリオTR5000と6エレメント八木アンテナでブラジルと交信成功。
1969年(昭和44年)生徒会会長選挙に立候補し、落選した。しかし、生徒会文化部長となり、コンサート、文集発行などの文化活動を企画する。
1969年(昭和44年)3.5 / 7 / 14 / 28 MHz帯 HFトランシーバー(真空管式)を自作した。
1970年(昭和45年)技術家庭科の増田・園田先生の指導によりオシロスコープ(真空管式)を自作した。
左から平沢俊一、西和彦、高志直全、横道純次
中学時代に板倉塾で共に英語を学んだなかよし四人組
2018年12月1日
2020年11月28日
2024年1月27日
15歳から
エンジニア・クリエーターとしての出発
1971年(昭和46年)兵庫県西宮市の私立甲陽学院高等学校に入学。
1972年(昭和47年)夏休みの講習会でコンピューター(HP9100A)に出会いプログラミングを始める。
1972年(昭和47年)同人誌 ひょうたん文庫の「ひょうたん新書」の発行に関わる。その後同人誌「書与暇人(暇人に与ふる書)」の編集発行人を務めた。
1973年(昭和48年)東京・銀座ソニービルで開催された「コンピューターアート展」を展観し、衝撃を受ける。
1973年(昭和48年)レコードジャケットのデザイン「A Day in the life.」をシルクスクリーン印刷で発表。
1974年(昭和49年)CQ出版社発行の「CQ Ham Radio」の特集「Specialized Communication:ラジオテレタイプ、テレビ、地球月地球通信」を読み、衝撃を受ける。
1974年(昭和49年)現役では東京大学理科I類を受験したが失敗。駿台予備校(お茶の水)で浪人。
1974年(昭和49年)日本電信電話公社データ通信本部が設立した「電気通信科学館」の開館準備を手伝う。
1974年(昭和49年)銀座ソニービルで開催された「コンピューターアート展」に参加し、運営を手伝った。
1975年(昭和50年)早稲田大学理工学部機械工学科へ入学、8年間在学後に83年に退学。
1975年(昭和50年)銀座ソニービルで開催された「コンピューターアート展」にコンピュータ(9830A)制御のシンセサイザーを出品参加。
1975年(昭和50年)早稲田理工では、1年生で教養課程にもかかわらず機械工学科・ロボット工学の加藤一郎研究室、電気工学科・電力工学の成田誠之助研究室に出入りした。
1976年(昭和51年)にロボット研究室では、ロボット制御のためのコンピュータに取り組むようにと言う加藤一郎先生の指導によって、ミニコンピュータ(Panafacom U-100)とハードディスクの接続に取り組んだ。
1976年(昭和51年)に電力研究室では、電力系統表示板を開発し、ミニコンピューター(HITAC10-II)に接続した。
1977年(昭和52年)に株式会社アスキー出版を創業
設立メンバーは、郡司明郎、塚本慶一郎である。企画部長を経て副社長に就任。 コンピューター総合月刊誌「アスキー」を創刊した。また、米国のコンピューター関連出版物の翻訳出版を数多く手がけた。 アスキーの企業としての枠組みを作ったのは、当時社長であった郡司明郎である。 また、出版社としてのアスキーを作ったのは塚本慶一郎である。郡司と塚本はアスキーを辞めて、株式会社インプレスという出版社を創業し、一部上場会社にまで育て上げた。
雑誌「月刊アスキー」の創刊号で西は「コンピューターはメディアになる」と述べている。西のコンピュータメディア論はコンピューターアート展を主宰していた音楽家端山貢明の影響をうけたものである。電気工作雑誌や、ホビー雑誌と違うモノにしたかったのである。しかし、雑誌の記事で電気会社各社の商品記事を書きながら、それぞれの商品に不満を感じ、自分の考えるパソコンを作りたいと考えた。
1978年(昭和53年)にアスキーマイクロソフトを設立し、社長に就任。
早稲田理工の図書館で見たElectronics誌の記事を読み、マイクロソフトにコンタクトし、ビル・ゲイツに面会する。マイクロソフトからBASICインタープリターのカスタム化に応ずるという返事をもらい、TK-80マイコンキットにBASICインタープリターを搭載するプロジェクトを開始する。これが後になってPC8001をNECとマイクロソフトで企画・開発することになるベースとなった。
1979年(昭和54年)にマイクロソフト米国本社・極東担当の副社長。
- スティーブ・バルマーのスカウト話が無線で丸漏れ
ビル・ゲイツと共にカリブ海のヨットからハーバードに無線中継電話をかけ、バルマーをマイクロソフトにスカウトし、給料の交渉をしたが、周りのヨットにすべて聞かれていた模様である。電話気分で、人に聞かれていないと思って自慢話をしたことが恥ずかしいと西は述べている。
- ビル・ゲイツ、ポール・アレンと西和彦の肝試し
須磨学園の飛び込みプールで肝試しをした。ビルゲイツは10メートルのジャンプ台から足から飛び込み、ポールアレンは3メートルの飛び込み板から足から飛び込み、西は1.5メートルの飛び込み板からしか飛べなかった。しかし、考えて、頭からダイブした。当時から、ビルにはリーダーとしてのカリスマがあった。
1980年(昭和55年)にマイクロソフト米国本社・企画担当副社長。
- NECパソコンPC8000、PC8800
- HITACHIパソコン BASIC MASTER L3
- OKIパソコン IF800
などの企画、設計に参画した。
1980年(昭和55年)にマイクロソフト米国本社・新技術担当の副社長。
- IBMパソコン5510の企画に参画した。
- Canonのポケットコンピュータを企画・開発した。
- EPSONのポータブルコンピューターHC-20を企画・開発した。
1981年(昭和56年)にマイクロソフト米国本社・ボードメンバー。
アスキー社長 郡司明郎、マイクロソフト社長 ビル・ゲイツ、アスキー副社長、マイクロソフト副社長 西和彦、日本電気会長 小林宏治
- 技術開発三度目の正直
富士通の社長・会長であった山本卓真氏の自宅を訪問したときに、MS-DOSは3回書き直さないと本物にならないと、ゼロ戦を設計した堀越二郎氏のエピソードを交えて諭された。これが、その後のMS-DOS、WINDOWS(2回失敗)の開発を推進する力になった。カッパブックスの「零戦」を贈られた。西のエンジニアとしての信条になっているという。
1982年(昭和57年)に
- TANDY M100、
- NEC PC8201、
- OLIVETTI M10
のハンドヘルドコンピューターを企画、設計した。生産は京セラ。
安井ブラザー工業社長とビル・ゲイツ、西和彦
ブラザー工業のファクシミリ参入のきっかけを作った。
週刊現代に連載された記事をまとめ、加筆訂正した本。マイコンブームの先駆けとして、80年代、90年代のマイコン社会を先取りして報道した。
1983年(昭和58年)に
- MSXホームコンピューターの企画、設計した。
1984年(昭和59年)に
- IBM互換ラップトップパソコンを企画、設計し、パソコンは鳥取三洋電機で製造し、米国ゼニス・データー・システム社に輸出された。
1985年(昭和60年)マイクロソフトとアスキー・マイクロソフトとの代理店契約はマイクロソフトの株式公開の機会に解消された。 その背後の理由は、西和彦とビルゲイツとの半導体開発事業に対する方針が衝突したことである。西はマイクロソフトは半導体開発事業に参入するべきであると考え、ビル・ゲイツは、当時の盟友インテルと競合する半導体事業には参入するべきではないと考えたためである。
1985年
わずか2年で株式を公開し、IBM互換機の大成功のきっかけとなった。
ビルゲイツとは、1990年のパルム・スプリングス PCフォーラムで再会し、和解した。続いて日本マイクロソフトのWINDOWS3.1の発表会でメッセージを述べた。
ビルゲイツにはシアトルの自邸の新築披露と40歳の誕生日、ハワイのラナイ島での結婚式と披露宴、50歳、60歳の誕生日などに招待された。
- 一番安かった4000ドルの誕生日プレゼント
ビルゲイツの40歳の誕生日が開かれ、40組が招待された。西は白い鳩を40羽、箱に入れて持参し、ビルゲイツに箱をあけてもらった。鳩は眠っており、最初はとばなっかった。ゲイツは1羽づつ箱から取り出し、空に放した。他の出席者から「最も安くて楽しいプレゼントである」と言われた。
30歳から
経営者として
1986年(昭和61年)日本に帰国して、窓際の副社長として資料室担当になり、出版社アスキーの情報インフラとしてのアスキーライブラリーを構築した。この経験が、後に電子出版に参入する基盤になっている。
1987年(昭和62年)にアスキーの社長に就任
マイクロソフトビジネスを失ったアスキーを再建。
マイクロコンピューター革命を推し進めている青年たちのことを、「新人類《と定義し、その実態を学術的なアプローチで観察し、記録した。当時のアスキーの社員が取材されている。
まだ創業10周年にならない若かったアスキーのことを初めてまとめた書籍。コンピュータージャーナリズムの先駆けの那野比古(井上一郎)が創業者三人を取材し、一気に書き上げた力作。
1989年9月21日に株式を公開。当時、上場企業の社長としては国内最年少。 パソコン関連からゲーム関連、インターネット関連、映画製作配給関連、米国ベンチャー投資関連に事業を展開した。
パソコン産業人のインタビュー集。おもに米国人が収録されているが、株式を公開した直後のアスキー社長としての発言が多い。
この間に、アスキーはバブルを体験し、145億円のスイスフラン無担保転換社債を転換前に、米国のベンチャー投資に固定化させ、株価低迷のための転換社債繰り上げ償還の借り換えのための協調融資に、日本興業銀行の指導によりリストラを行い、再び活性化した。
明日来の扁額は大徳寺如意庵の立花大亀老師の筆による
アスキーがリストラを行い、やっと一息ついたときに実業の日本に連載された記事を加筆訂正したもの。 電子出版版でも提供されている。
アップル向けに出版された電子書籍。著者によって加筆訂正されている。
- お腹が引っかかって、飛び降りれず
アスキーのリストラ時に取引銀行が来訪し、融資を引き上げると通告され、衝動的に南青山のビルのトイレの窓から飛び降りようとした。しかし、窓が小さすぎて上半身だけしか出ず、小用に来た銀行の人に見つかり、助けられた。そのせいか、その日の融資引き上げの話は中断した。
再び活性化した社内から、経費節減などの経営努力に反発したグループが、脱社して別会社を設立するなどのトラブルがあり、銀行団は社長専任体制から集団指導体制に切り替えようとした。それを受け、アスキーはこの後、カンパニー制を導入した。
システムカンパニーは西が、出版、ゲーム、研究所には外部から幹部を迎えたが、これがうまく機能せず、出版カンパニーが週刊アスキーの失敗と在庫増で40億円、ゲームカンパニーがゲームの仕掛かり増と在庫増で60億円、合計100億円の資金の固定化を起こした。これが理由でCSKに増資の要請をすることになった。
- BLOGのハシリ
アスキーが社運をかけた、「2代目週刊アスキー」の表3対向ページに、自らのプライバシーを綴った「デジタル日記」を連載した。個人ブログのハシリである。後に、週刊アスキーが30万部を達成したときに伏字を全て実名にした「西和彦のデジタル日記」をパーティの引き出物として、限定出版した。
著者藤原洋と西和彦はアスキー時代にともに開発を行った。その様子を60歳になり還暦を迎えた藤原洋が書き下ろした自叙伝。当時何が起こっていたのかをアスキーの役員の立場で正確に記録した貴重な書籍である。
1997年(平成9年)CSK,SEGAを対象に第三者新株増資を行い、約100億円調達し、CSKグループ企業となる。
1998年(平成10年)CSKの幹部はアスキーを支配し、大幅な赤字を計上させ、アスキーは債務超過に陥り、西和彦は責任をとって社長を辞任した。この時代についてはノンフィクションのドキュメンタリーを執筆中。
p178-185『アスキー経営の誤算』
1998年(平成10年)アスキー取締役(教育事業担当)。
2000年(平成12年)その後、西はアスキーにおいて教育事業を立ち上げ、売り上げ50億円・黒字を達成し、復権する。アスキー取締役副会長。
教育事業担当から広く全社の運営に携わるようになり、さらに復権する。
2001年(平成13年)アスキー特別顧問。
2002年(平成14年) CSKグループ企業の創業者 大川功の死去に伴い、アスキーのすべての役職から退任する。
その後、CSKはアスキーの過半数の株式を投資ファンドに売却し、アスキーの経営から撤退した。
創業者西和彦と大株主CSKを失ったアスキーはファンドの経営者により迷走を始める。
ファンドは株式を角川書店に売却し、アスキーは角川書店の一事業部門となり、「アスキー」は角川書店の持つブランドの一つとなった。
45歳から
教育者として、中学、高校と大学、大学院
中等教育
2001年(平成13年)須磨学園高等学校 校長。 理事長 西泰子が打ち出した職業女子校から進学男女共学校に転換する方針の下、須磨学園高等学校の運営に参画し,西泰子と共に大幅な改革を行った。
2002年(平成14年)に学校法人須磨学園 学園長。現任。
男女共学の中学校・高校一貫教育を行うために須磨学園中学校を設置・開校し、「受験」、「教養」、「総合」を追求する独自の6年間の一貫教育を展開している。
2002年(平成14年)
2012年(平成24年)
2022年(令和4年)
高等教育
1990年(平成2年)に東京工業大学非常勤講師。
企業で行ってきたマルチメディア関連の研究開発を系統的に整理し「マルチメディア概論」として講義を始めた。
この経験が博士論文執筆に役に立った。
10年間勤める。
1999年(平成11年)に工学院大学大学院情報学専攻にて学位 博士(情報学)を取得。
- 西澤潤一先生に諭された博士としての使命
2000年に博士号の学位をとったときの指導教授は西澤潤一先生の直弟子である持田康典先生であったので孫弟子として報告に伺った。「博士の値打ちは君が何人博士を作ることができるかにかかっている」と言われた。博士になって直後のときに博士を育てる準備をせよという指摘は強烈な印象として残っている。その後15年間で約10人の博士の誕生に関わった。
1993年(平成5年)国際大学 GLOCOM研究所 特別研究員。
日本興業銀行 中山素平特別顧問の紹介で国際大学グローコムに公文俊平所長を訪ね、村上泰亮前所長の時代とは違った新しい研究軸としてのインターネットの総合的な研究を提案した。インターネットブラウザーがパソコンで動き、情報の流通が社会と世界を変えると予測した。
また、率先して企業スポンサーからの寄付集めに奔走し、IECP(産学協働プログラム)を立ち上げた。
- 中山素平氏に諭された勲章のたぐいは辞退せよのこと
日本興業銀行に中山素平氏を訪ねたときに、中山さんに「なぜ勲章をお受けにならないのですか」と聞いたら、中山氏は「勲章は大臣や役人や軍人が国から貰うもので、実業人はお客さまから貰うものだと思っている。」と言われ、「君もそうだろう」と諭された。これは西の人生の大きな指針になった。
公文と西は共著で記事[9]を書き、ISDNの次はADSLでODNを中核とする情報通信基盤の構築促進こそ、今日の情報通信政策の中心課題である。ソフトバンクBBがADSLを始めるはるか前である。しかし、西にはNTTに対抗してADLSのインターネットサービスを展開する事業観は無かった。
p108 - 114『第三提言 いま何が問題なのか』
NTTの経営形態について、戦後禁止された「持株会社」を復活して、NTTを分割して、経営の最適化と、国際競争力を持つ企業群に再編するべきという論陣を張った。西はNTTをさらに強くすることが日本の国益に叶うと発言している。そのため持ち株会社を解禁し、NTTグループとNTTと競争できる民間の大同団結が必要であると説いた。この民間モデルは現在KDDIがそれを実現している。第三の電気通信事業体であるソフトバンクはこの頃出版事業しか手がけていなかった。
1999年(平成11年)に宮城大学客員教授に就任。
1999年(平成11年)国際連合大学 高等研究所 副所長、客員教授。
UNU/IASにおいては主に「UNL計画」を立案、推進した。
- Universal Networking Language計画
インターネット時代に大きく問題になるのは、ネットワークやパソコンの所有ではなく、インターネットに蓄積される知識が書かれている言語が何であるかが重要であると指摘し、国際的な知識の共有のために、WEBの言語を機械翻訳するプロジェクト「UNL」を高等研究所所長のタシシオ・デラセンタとUNL部長の内田裕士と共に推進した。 このプロジェクトは後にUNDL財団(スイス。ジュネーブ)に引き継がれている。
同時にインターネットによる国家の覇権について研究した。
コンピュータと教育
MSXパソコンの教育的活用プロジェクトで共同研究
2年間にわたり指導を受けた。数少ないミンスキー博士の直弟子の一人。
2000年(平成12年)米国マサチューセッツ工科大学メディアラボ客員教授(平成16年まで)
MITにおいては4つのプロジェクトを推進した。
- 100ドルパソコン計画、
- WEB機械翻訳計画、
- インターネットでのマイクロペイメント計画、
- アドホック結合をしたルーターのフェイズアレーによるVSAT計画
を発案して、推進したが、100ドルパソコンの設計方針の違いで退任した。西の考えていたアーキテクチュアはFPGAを用いたもので、1チップMSXなどで実証実用化された。
宮城大学客員教授、工学院大学客員教授、早稲田大学客員教授、北陸先端科学技術大学院大学客員教授、青山学院大学客員教授、作新学院大学客員教授などを務めた。
1998年(平成10年)尚美学園短期大学 教授。
2000年(平成12年)尚美学園大学大学院 教授。
尚美学園短期大学が4年制の尚美学園大学への改組にあたり、準備委員を務めた。4年制になった尚美学園で、
- マルチメディア総論、
- メディアネットワークと社会、
- 起業論、
- デジタルビデオ総論、
- イベントプロジェクト特論
などを大学と大学院で教えた。
2009年(平成21年)尚美学園大学大学院 芸術情報専攻 教授。
情報分野に加えてアート・マネジメント分野の講義も担当するようになった。
2014年(平成26年)尚美学園大学芸術情報学部 音楽応用学科 開設準備委員を務めている。芸術情報学部内でコースの再編を行い、音楽メディアコースと音楽ビジネスコースをして音楽応用学科に編成した。
2015年(平成27年)尚美学園大学芸術情報学部 音楽応用学科 学科長に就任。
2016年(平成28年)退任にともない 尚美学園大学 名誉教授に。
研究者・クリエーター・プロデューサーとして
- ブックス(出版・電子出版・ライブラリー)
1978年(昭和53年)アスキー出版を創業し、月刊アスキー、週刊アスキーを立ち上げた。
1995年(平成6年)蔵書が5万冊を超えたので、個人ライブラリーを開設。
2000年(平成11年)アスキーから退き、出版事業から撤退したが、再開の努力は続けている。
2010年(平成21年)10年ぶりに出版事業にふたたび参入して、「アゴラブックス:現アカシックライブラリー」を池田信夫と共に設立。
池田がアゴラ研究所に専念するため、
2011年(平成22年)に電子出版開発会社「アカシックライブラリー」社長。
電子出版会社のアカシックライブラリーでは、電子出版のシステムを出版社や個人に提供し、また、古今の名著を再版する活動を行っている。
- アート(グラフィックス・写真制作・アートコレクション)
- 中学時代より写真の現像・引き延ばしの技法を習得し、写真作品を製作している。 高校時代よりシルクスクリーン印刷による版画の技法を習得し、シルクスクリーン作品を製作した。 この経験はプリント基板の制作や半導体のエッチングに対する感覚として、受け継がれている。
- マルク・シャガールのリトグラフ作品を1000点以上収集した。このコレクションは高知県立美術館に収納されている。
- デザイナー田中一光とコラボレーションし、ポスターをプロデュースした。
一つはアスキー再生のシンボルポスター。
二つ目は、日本機械学会100周年記念のシンポジウムポスター。
三つ目は、国際連合大学高等研究所主催のシンポジウムのポスター。 - ミニマリズムを掲げてオーディオ機器のデザインを行った。GKデザイン研究所と共同で製作しグッドデザイン賞受賞した。
- 米国メトロポリタン美術館の客員委員に選ばれ、主に21世紀の現代美術とインターーネットと美術館運営についての提案をルアーズ館長、ホーキンズ副館長に続けた。これによってメトは早くから世界で一番進んだWEBサイトを運営してきた。
- 企業人の大茶人、益田孝、松永安左エ門、松下幸之助にあこがれ、茶道裏千家に入門した。同時に茶道具の収集を行ったが、アスキーの経営危機に際して全部売却した。一部はCSKによってクリスティーズでオークションされた。 価値のある美術品を売却した後に残った美術参考資料を中心に方向性を変更し、研究は続いている。
茶道をはじめた動機とその背景をインタビューされ答えた。美術品収集と茶道に関する考えを述べた。
- ミュージック(クラシック音楽 製作・録音)
- 1999年(平成11年)ザルツブルグ音楽祭と共同して21世紀のための合唱付き交響曲「平和のシンフォニー」を製作した。
シンフォニーの作曲はフリップ・グラスに委嘱し、ザルツブルグ音楽祭で世界初演された。
- コンサートの企画を20回以上行ってきた。 また、コンサートを録音して、CDを出版した。
1993年
- 映画(映画 製作・配給)
ベム・ベンダースの「夢の果てまで」、エド・ブラナー「ヘンリー5世」、エドワード・プレスマン「ホミサイド」に製作出資した。
1990年(平成2年)ジョン・アブネット監督「フライド・グリーン・トマト」をエクゼクティブプロデューサーとして製作した。
カンヌ映画祭ににおいて、フランス「ル・モンド」紙の主催する「映画の未来」でプレゼンテーションした。
エンジニア・コンサルタントとして
2002年(平成14年)にコンサルティング会社、「ITNY and Partners」を池田信夫、田中良拓、山田肇らと共に設立し、マネージングディレクターに就任。
ITNYでは、パソコンを並列接続したスーパーコンピューター、携帯会社に対する政策コンサルティング、デジタルマルチメディア放送、デジタル放送タワーの設計などのプロジェクトを行った。
その後 山田肇、池田信夫、田中良拓はそれぞれ独立し、ITNY and Partnersは、N & Partnersに改称した。
2005年(平成17年)にハイエンドオーディオ開発会社「デジタルドメイン」を設立し、社長に就任。現任。
2007年(平成19年)からデジタルドメインでは、
- 静電誘導トランジスターアンプの開発
東北大学名誉教授の西沢潤一博士が発明された静電誘導トランジスターの特許を譲り受け、オリジナルの第2世代SITを製造し、アンプB-1aとしてまとめ上げている。静電誘導トランジスタは、ゲルマニウム、バイポーラー、電界効果トランジスタに続く究極のトランジスタと言われている。出力段のインピーダンスが極端に低く、アンプに好ましい性質を持っている。
- マルチビットDACの開発
また、英国dcs社のDACをしのぐ最高級のDACと言われている、米国MSBテクノロジー社のマルチビットDAコンバーターモジュールを内蔵したDACを開発し、D1a、D1bとしてまとめあげた。スーパーオーディオCDのデーターをDSPで計算し、PCM信号に変換してアナログ化するシステムを構築した。
- 同軸スピーカーの開発
1945年に米国RCA研究所でオルソン博士が開発した放送局向けスピーカーLC1Aの改良を行っている。
- アナログ録音・再生システムの開発
独国ノイマン社のレコードのカッティング装置、米ウエスタンエレクトリック社の再生装置の歴史的解析、改良研究に取り組んでいる。
- 4K、6K、8K テレビシステムの研究
一貫した開発テーマはコンピュータと共存する次世代オーディオ・ビデオシステムの開発である。
エンスー・メカニックとして
- 自動車
最初に操縦した乗り物は自動車ではなく、キャタピラーで動くブルドーザーであった。須磨学園板宿キャンパスの整地の見学のときに、建設機械にのせてもらった。 また、敷地内で自動車の運転を始めた。 早稲田の機械工学の影響で、自動車の本質=エンジンの性能と考えている。 また、イタリアのデザイン会社ピニンファリーナとのコラボレーションの経験から、車のデザインについても、独自の視点がある。未来の車はライトがボディと一体化し 昼間にライトは見えないというものである。
過去に乗った車は、ビルゲイツに結婚祝いとして貰ったFORDのフリーモント、事故で3日目につぶしたマスタングなど。そのなかでも分解、組み立てしたエンジンはFerarri、Porsche、Bentley、RR、Jaguarなどである。
アスキー時代の社用車は取引銀行の関係で日産のグロリア、シーマであった。気に入っていたが、新しい日産になってから止めた。
現在乗っている車は最高のエンジンと呼ばれる12気筒5300ccのダイムラーW6と、6気筒1990ccのBMW320iである。
- 船舶
ボーイスカウトの研修会で当時神戸商船大学にあった練習船「進徳丸」に泊まり込んだ。毎日カッター訓練やマストに登る訓練などを受け、船員になるのは絶対嫌だと子供心に思った。しかし、なぜか船の舳先に立つのは好きで、またブリッジでウロウロするのも好きだった。この頃から大きな船に乗りたいと思うようになった。
東海汽船を退役した客船「はまゆう丸」を改造してプライベートヨットにする計画をしたが、造船所の近海航海に耐えられないというアドバイスにより、断念。
アスキーの社長をやめて最初に始めたのは海に出ることであった。ウォーターバイクで葉山の海を週末にうろうろしていた。すこしづつバイクを改造して、タンクを増やしたり、無線をつけたり、GPSをつけたりして、遠出できる船体にした。
2002年(平成14年)しまなみクルーズに乗船したときに、船の操縦をさせて貰って、クルージングにはまった。一級・特殊小型船舶操縦免許をとり、ボートに乗るようになる。瀬戸内海をクルーズしていた。
ヘリコプターと同じようにGPS、魚群探知機、自動操縦、近海用安全装置、燃料タンク増漕、エンジンチューンアップなど、その船体には大きめの航法システムを搭載したクルーザーを設計。この船舶は後に安全性が評価され事業用に売却された。
- 航空機
1962年(昭和37年)加古川の河川敷で父邦大の膝の上に乗せて貰って、生まれて初めてグライダーに乗る。いつかは自分で空を飛ぶと心に決める。
1977年(昭和52年)早稲田では体育会航空部に所属し、グライダー(JA2149)とモーターグライダー(JA2123)に乗っていた。
1979年(昭和54年)マイクロソフトのあるシアトルとシリコンバレーのあるサンフランシスコと東京を日本航空やユナイティド航空の飛行機で毎週往復していた。
ナビゲーターを務めた。途中坂出市で着陸給油。
1989年(平成1年)長年の夢であったヘリコプター(350B2)を購入(JA6066)し、GPS表示機、自動操縦、水上着水フロート、燃料タンク増漕など、その機体には大きめの航法システムと安全装置を企画設計し、フランスのエアロスパシアル社で立ち会い実装した。ヘリコプターは後にオーストラリアに売却した。
1990年(平成2年)NASA放出品の中古ジェット練習機T-38を購入し、米国で再び整備して日本に輸入しようと試みるが、運輸省の許可が下りずに断念。
2005年(平成17年)DC-10の操縦を習い、羽田のシミュレーターで羽田空港離陸着陸、レインボーブリッジくぐりの慣熟訓練を行った。
2008年(平成21年)米国のAIR FORCE ONE、NEACAPなどの研究を行い、「政府専用機のあるべき姿」についての提案をまとめた。747政府専用機の改修時に提案は一部採用された。
2010年(平成22年)マイクロソフト時代の同僚であったバーン・レイバーンが創立したEclipse Aviationの超小型プライベートジェットの販売を日本代理店として企画した。その後、Eclipseのオーナーが代わり、日本への輸入はなくなり西は航空機輸入事業から撤退した。
60歳から
工学系研究者として
還暦の60歳にあたり、これまでの活動をウェブサイト(nishi.org)と本にまとめた。
個人の経歴を自分なりに分析してわかったことは、15年周期で活動が変化していること。30歳までの技術者、45歳までの経営者、60歳までの教育者の3つの時代である。この先の時代は60から75歳までの15年間である。
2019年 61歳になり、東京大学大学院機械工学専攻にてIoTメディアラボラトリーのディレクターとなる。
1999年(平成11年)に工学院大学評議員に就任。
会津大学学長選挙
米国のMITメディアラボの自由な研究環境に触れ、日本では工学院大学の最年少の評議員に推され、大学経営に触れた。公立会津大学の教員の推薦により、学長選挙に立候補した。一次投票では最高点をとったが、過半数に達せず、決選投票で現職の学長に敗れた。
秋葉未来大学(仮称)設立準備委員
それがきっかけで新しい大学の設立を考えるようになり、工学院大学の評議員を辞任し、秋葉未来大学(仮称)という名前の工科大学の設立を計ったが、リーマンショックで計画は停止した。
出典
- 立花隆+立花ゼミ『二十歳のころ』(新潮文庫)のpp.449-457に、20歳前後の本人についてのインタービュー記録が収録されている。
- この経緯は田原総一朗の『マイコン・ウオーズ』に詳しく書かれている。
- この経緯は那野比古(井上一郎)の『アスキー新人類企業の誕生』に詳しく書かれている。
- このアスキーの復活物語の一部は、滝田誠一郎によって「実業の日本」に連載され、『電脳のサムライたち − 西和彦とその時代 −』にまとめられた。
- ここのところは藤原洋の記事に詳しい。
- ここの部分については、日経BP社のBizTech No004pp178~185 記事「アスキー経営の誤算」に詳しく書かれている。
- ここの部分については、西の著作「ベンチャーの父 大川功」に詳しく書かれている。
- 「無線と実験」2008年5月号に特別インタービュー「SITアンプと最新デジタル技術でオーディオの新たな標準を目指す」という記事があり、当時の商品群が取り上げられている。
- 『中央公論』(95年12月号)で「いま何が問題なのか」
- この経緯は須磨学園記念誌編集委員会『須磨学園90周年の歩み』須磨学園、2012年[1]に詳しく書かれている。
- 自動車技術展示会「AT International」(日経BP社主催,幕張メッセ)2008年7月25日
- ポール・アレンの書いた『ぼくとビル・ゲイツとマイクロソフト アイデア・マンの軌跡と夢』夏目大 訳、講談社、2013年のなかにプールでとったビルゲイツとポールアレンと西和彦の写真がある。
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